それでふと思ったのだけれど、ダクソ2はかなりアプデがブレブレだったんじゃないかと思う。
確かに、無印も、デモンズもアプデを重ねることで、ゲームバランスを整えていった。
バグや不具合を修正することは願ってもないことだ。
けれどダクソ2はそれ以外のことで、アワアワと慌てふためくが如く、場当たり的な調整をしていた感が拭えない。
修正する、元に戻す、また修正するなんて調整もあった。
全体的に、何というか「声」に敏感に反応しすぎだと思っていた。
これは別にゲームのアップデートに限られたものではないと思う。
例えば飲食店や観光業界はインターネットの口コミサイトとそれに関するトラブルに悩まされていることだろう。
それら「声」が、正当なものならば問題ないが、いちゃもん、嘘等で評判に傷がつけられることもあろう。
そして、とりわけ漫画アニメゲームラノベ業界は「声」に踊らされすぎている。
比較的狭く、インターネットというツールに最も溶け込んでいる業界であるためか、作り手側が気にしすぎているように私は思う。
怯えていると言ってもいいくらいだ。
ネット上の「声」は実態がどうであれ、大きいものほどその作品の評価や感想等を一定の方向に誘導しうる。
まとめサイトなどは良い例だろう。
逆にそれを利用した宣伝方法もあるが、今は捨て置こう。
昨今のおもしろいと思えるものが、傑作と呼ぶに相応しい作品が、減っているように感じられるのは、作り手側がこの「声」を聞きすぎてしまうからなのではないかと思う。
既にやりつくされて、目新しさがなくなったとか、成長して、感性が変わったとか、別の要因もあろう。
ただの懐古主義者だと言われるかもしれない。
また、このブログのように自分だって感想をネットで書いてるじゃないかと思われる人もいるかもしれない。
でも作り手側は「あ~感想ありがとね」くらいで、無視してしまってもいいと私は思っている。
自分の望み通りになってほしいという気持ちが全くないわけではないけれど、自分にとって良いものはできるだけ楽しみ、違うと思ったものは、「つまらない」とか「合わない」とか書くこともあるだろうが、それでおしまい、といった風に消化するからだ。
その後はただ、次のものに行くだけだ。
作り手が自分たちにとって作りたいものができているのなら、例え、それに合わない人が多かったとしてもそれは尊重されるべきだと思う。
もちろん商売でやっているわけだから、儲けるためには大きな「声」を、お客さんを気にかけることは一概に否定されることではない。
けれど、自らを曲げ、その大きな「声」に媚びてしまったら、阿ってしまったら、それはクリエーター(創作家)ではなく、商売人になってしまうと私は思う。
偉そうな物言いだと自分でも思うが、同じことをしていてもその実、中身が全然違うのではないだろうか。
高尚ぶったところで、売れなけらば意味がない。
確かにそれはもう、御尤だ。
それに、そうしたくてもスポンサーや会社、編集などに抗ってまで我を通せるクリエーターはそう多くはないだろう。
ただ、それで楽しいのだろうか、と思う。
それがやりたかったことなのだろうか、とも思う。
一般の大多数の人とは違って、折角趣味を仕事にすることができているのに、勿体ないなと思ってしまう。
ゲーム業界でいえば、シリーズものしか売れていない。
それも守りに入っている印象ばかりうける。
確かに、会社が潰れてしまったら元も子もない。
また、スマホゲーみたいに低コスト高リターンで簡単に儲けられればそれでいい人もいるかもしれない。
まあ、さっきも言ったが、それは既に創作家ではなく、商売人だけれども。
昨今、クールジャパンなどといって、日本のアニメや漫画などのコンテンツを海外に売り出しているが、正直最近のそれらはとてもクールとは思えない。
懐古主義と言われようが、間違いなく10年前、20年前の作品の方が圧倒的にクールだと思うのだ。
嘗てのような、クリエーターが目をギラギラさせて作ったと感じられるようなものを求めることは間違っているのだろうか?
もう、時代は変わったのだろうか?
最近のそういう作品の売り上げに貢献しなかった我々消費者にも責任はあるだろう。
そもそもこう思うこと自体が「声」のようになってしまっているのだろうか?
勝手ながら、このまま慣れ親しんだコンテンツ、カルチャーが衰退していく気がして、何かしらの寂寥感のようなものを感じているのかもしれない。
そういう点では、一番最初に挙げているが、フロムソフトウェアは十分に期待できる会社だと思う。
ブラボには期待している。